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八代将軍 徳川 吉宗
プロフィール
1684年10月、紀伊和歌山の城下で1人の男の子が生まれました。母はおゆりといいました。彼女は風呂番の下女でしたが、立派な体格に魅せられた二代藩主光貞(家康の孫)の子を産んだのです。光貞の4人目のこの男の子は、源六、ついで新之助、頼方と名を改めます。1705年両兄綱教、頼職が相次いで死去したので(兄一人は幼死)紀伊藩を相続し、吉宗と改名しました。
22歳のときでした。
吉宗は身長182センチ、色は浅黒く、あばた面で少し角ばった顔をしていました。腕力は強く、19歳のとき、お抱え力士と組んで負けなかったといいます。まさに母親ゆずりの体型に成長していました。
紀伊藩主から将軍に
江戸時代も18世紀にはいると、諸藩とも財政の窮乏に悩んでいました。紀伊藩でも、吉宗が藩主になった翌々年、大地震と津波におそわれ、その復旧に莫大な費用がかかりました。吉宗は早速、藩の財政改革に着手し成果を上げました。紀伊藩主吉宗の政治は、老中をはじめ諸大名の注目を集めていました。この間、長男長福のちの九代家重(生母お須磨の方、26歳没)と次男小次郎のちの田安宗武(生母おこんの方、29歳没)が生まれています。
1716年4月30日、七代将軍が8歳で死去したあと、天英院(六代将軍家宣の正室)と結んだ間部詮房反対派の譜代に推されて吉宗は八代将軍となりました。時に33歳(家康の没後100年)でした。
家康がめざした国内統一と平和は、秀忠・家光の手による幕藩体制の確立で成就しました。平和の到来は、農業をはじめ諸産業や貨幣経済の発達をみました。幕府や諸藩による新田開発が行われる一方で、農村における貧富の分解もはじまり、年貢米上納中心の幕藩の財政窮乏が大きな問題になってきました。元禄・正徳両政治の貨幣経済の失敗から、財政再建の抜本的改革が求められていました。吉宗の「享保の改革」はこうした財政再建と幕府政治のひきしめを最大課題として30年間続けられます。
享保の改革を遂行
1722(享保7)年、幕府の最重要課題の財政改革を強力に遂行し、その目的を達成します。吉宗は自ら倹約を率先し、政治機構の整備・改革を行いました。年貢も検見法(けみほう)から定免法(じょうめんほう)に改めて年貢米収入の増収と安定をはかりました。また新田開発や甘蔗・甘藷・朝鮮人参など新しい作物の栽培を奨励しました。さらに政治改革のための優秀な人材確保のため足高(たしだか)の制を定め、大岡忠相や荻生徂徠、室鳩巣、青木昆陽らの学者を重用しました。1742年、「公事方御定書(くじがたおさだめがき) 」の制定によって裁判の公正化・迅速化をはかりました。
吉宗は実用的、実証的な学問には強い関心をもち、1720年にはいわゆる「洋書の解禁」を行いました。これこそ、蘭学、洋学の発展のもとになり、日本の近代化促進に役立ちました。吉宗は大岡忠相を町奉行に登用して、江戸の市政改革、防火、救貧、風俗取締り、物価統制などに努めました。
吉宗は62歳で将軍職を家重にゆずり、西の丸に引退し、68歳で死去しました。墓は上野寛永寺にあります。
吉宗の人物を紹介しましょう。吉宗は歴代将軍の中でも倹約に徹しました。小食で、精米しない玄米を1日2回、おかずも3品。酒は好きだが度をこさない。衣服は夏・冬とも木綿の肌着でとおしました。
5代綱吉以来、武芸を怠り、顔に紅白粉などをつける武士が多くなった時代、倹約・尚武を重視した吉宗は鷹狩りを奨励し、自らも実施しました。狩りは獲物の多少を競うのが目的ではない。平和な時代に、家臣の力量を確かめるのにもってこいである上に、農民たちの苦労や実情を知り得るからだと子の家重や孫の家治に教えています。
狩りの途中にわか雨にあい、びしょぬれになって通りすがりの禅寺に入り雨宿りをしました。住職が挨拶に出ると、衣服を乾かすため吉宗は裸になっていましたが少しも気取ることなく話をかわしました。さすがは吉宗公と住職は感じ入ったそうです。