源 頼朝と鎌倉
頼朝、 東海道から鎌倉へ
平安京を出て東国に向かう東海道は、噴煙をあげながら高くそびえ立つ富士山のふもとを通り、箱根山の足柄峠をこえて関東平野に入ります。相模(神奈川県)の国府(大磯町)をすぎてから東へ進み、鎌倉の名越切通(なごしきりどおし)を通って三浦半島中央部に入ります。さらに谷間を通って東海岸に達し、浦賀・走水から東京湾入口を舟でわたり房総半島に上陸、安房・上総・下総(千葉県)・常陸(茨城県)と北上します。常陸から先は「道の奥の国」になります。
1180年8月23日石橋山敗戦で、箱根山中に逃れた源頼朝(34歳)は、真鶴岬から小舟に乗り、安房にたどりつきました。安房・上総・下総、さらに武蔵(東京都)の豪族たち(武士団)数万を率いた頼朝は10月6日に鎌倉(当時は一寒村)に入りました。石橋山敗戦から40余日しかたっていません。
鎌倉幕府の政治機構
鎌倉を本拠地に決めた頼朝は、先祖の頼義が陸奥の安倍氏攻撃の勝利を感謝するために建てた由比の若宮(元八幡)を、現在の場所に移し、平安京の内裏になぞらえて鎌倉の中心として、山上に本宮を造営しました。また、八幡宮東側の大倉郷に館を造営しました(いわゆる鎌倉幕府跡)。80年11月御家人の統卒や軍事・警察などの職務をもつ侍所を設け、84年10月には政治と財政をあつかう公文所(くもんじょ、のちの政所)と問注所を設けました。
また、京都でうだつのあがらなかった大江広元・三善康信らをよんで公事奉行人(秘書団)として政務にあたらせました。
頼朝は、この間、平氏との戦いを進め、85年3月壇ノ浦で平氏をほろぼしました。89年奥州藤原氏をほろぼし、陸奥・出羽両国を支配しました。90年10月上洛し、右近衛大将および権大納言に任じられましたが、12月4日両方とも辞職しました。92年征夷大将軍に任じられましたが、これも3年後辞退しました。頼朝にとって、朝廷の権威は不必要でした。
将軍と御家人
頼朝は鎌倉の主という意味で、鎌倉殿とよばれました。頼朝に従う東国の武士たちは、鎌倉殿への敬意から「御」の一字を加えて「御家人」とよばれました。御家人たちは、自らの館を中心とする開拓農場主であり、先祖伝来の所領支配の強力な保証人として鎌倉殿を仰ぎました。頼朝も御家人らの所領支配の保証(本領安堵=あんど)と、新しい所領を恩賞として配分(新恩給与)するさい、所領の地頭に任命する形式をとりました。平安末期、律令政治とその補完体制の摂関政治が制度疲労をおこし、院政-平氏政権の推移で中央権力が機能しなくなったため、東国の武士たちは、所領をめぐる荘園領主や知行国主・目代などとの争いが絶えず、一大英雄の出現を待ちました。
頼朝は、東国の各地に分散・割拠する武士団を御家人として組織し、天然の要塞、鎌倉に軍事政権を樹立しました。しかも、挙兵10カ年にして強力な独裁政治の展開に成功しました。頼朝は御家人一人ひとりの容貌や性格まで熟知し、彼らの全幅の信頼を受けていました。
切通しに見る鎌倉の地形
鎌倉は、三方を山にかこまれ、海にのぞんだ、せいぜい3キロ四方の土地です。山はさほど高くないが、入りこんだ谷によって複雑にきざみこまれた山々は天然の防禦陣地となっています。外部とは切通(山を切りくずした狭い通り道)によってしか人馬は往来できません。
一緒に名越切通を通ってみましょう。名越踏切から東へ進む元東海道は、岩盤のけわしい山路になります。胸突き坂を登りつめると、国指定史跡名越切通碑が建っています。この辺は明るく浅い切通ですが、しばらくゆくと、突然暗くなり、高い両岸上に樹々の茂った切通が直角に曲がります。馬一匹がやっと通れる道幅です。ここから下りになり、法性寺近くから北を眺めると、稜線近くを垂直に切り落とした10メートルほどの崖が800メートルほど続いています。名越の大切崖とよびますが、鎌倉の防禦の堅固さを示す遺跡の一つです。振り向くと逗子の街の向こうに三浦半島の山と海が見えます。頼朝が鎌倉を本拠地に決めた意図がはじめて実感・共感できます。
旧頼朝の館のうしろに、彼の墓が建っています。現在の墓は、江戸時代中ごろ、薩摩の島津氏が建てました(島津氏は自らを源氏出身という)。頼朝亡き後、北条氏の執権政治となり、鎌倉幕府による政権は150年間続きました。なお、鎌倉幕府という用語は、鎌倉時代にはなくて、江戸時代の歴史学者が命名したものです。