悪魔が仕事を持ってくる
生きているということは、動いているということでもある。すべての動きが停止した状態が死である。生きている限り、動きたくなるのが自然である。元気な人間にとって、密室にじっとしていることほど、耐えがたいことはない。
ところがフランスの哲学者パスカルは『パンセ』の中で有名な一節に、人間のあらゆる不幸は、部屋の中にじっとしていることが出来ない、という、この唯一のことから起こるのだ、と言っている。
このパスカルの言葉に初めて接したのは、随分昔のことであるが、以来この言葉が脳裏にこびりついて離れない。人間は気晴らしを求めて外に出たくなる。果たしてパスカルの言うことをどれほど信じてよいものかどうか。これと似たような話を中国の古典『荘子』の中に見つけて、かえって疑問は増すばかりであった。
「影」と「足跡」の話
『荘子』の漁夫篇にこんな話がある。
ある処に、自分の影をこわがり、自分の足跡を嫌う男がいた。その男は自分の影と足跡を振り切ろうとして逃げたが、懸命に走れば走るほど足跡の数は多くなり、影はぴったりついてくる。それではと、更に全力をふりしぼって息もつかずに疾走したが、とうとう力つきて、その男は死んでしまった。
このエピソードを紹介した漁夫は、こんなふうにコメントする。
「この男には、日影に身をおけば影は消え、じっとしていれば足跡もつかないことがわからなかった。なんと愚かなことだろう」と。
パスカルにたいしてと同様、この『荘子』の話に対しても多少の異論をさしはさみたくなる。確かに日影にじっとしていれば、何事も起こらなかったであろうが、それでは生きている甲斐がないではないかと。
『荘子』の作者である荘周は、「無為自然」、つまり何もしないでじっとしていることをすすめる。パスカルは、部屋に閉じこもってじっとしているのがよいと言う。いずれも孤独の勧めである。しかも問題は、孤独であるところから生まれる不幸や災難も少なくない。例えばこんな諺(ことわざ)がある。
「小人閑居して不善をなす」
凡人は、暇をもてあまして何もすることがないようなとき、ろくなことをしない、という訳であるが、確かにこういうことに自ら思い当たることも少なくないのではないか。「善をなす」ことよりむずかしいのが「無為」である。「無為」は生きていることを一時停止することに外ならないが、そんなことは誰にも出来る訳がない。賢人偉人にもむずかしいことである。そこでこんな諺が生まれることとなる。
「君子は独りを慎(つつし)む」
立派な人というのは、ひとりでいるときの行動には注意をするものだ、という訳である。
悪魔より怖いものは
東洋でも西洋でも、ときには孤独が人間にとって如何にあぶないものになるかという点では、見方は一致している。
「孤独は悪魔の仕事である」
暇をもてあましていると、悪魔が仕事を持ってくる。完全に孤独で、他人とのコミュニケーションが閉ざされた仕事は、人間の社会には属さない。それこそ悪魔の仕事である。悪魔が一人の人間を破滅させるために用意した「仕事」である。
「魔がさす」という言葉があるが、悪魔は人間の心の隙間に入り込もうと虎視耽々(こしたんたん)とねらっている。孤独こそ、魔が入りこむ間である。暇は隙であり、間である。間を埋めるための仕事を調達するのに、悪魔は事欠くようなことはない。
悪魔といえば、悪魔メフィストフェレスに魂を売り渡す契約をして、その代償として、青春を手に入れたファースト博士の物語が有名である。ゲーテは悲劇『ファースト』で主人公にこう言わせる。
「結局のところ、悪魔に身をゆだねたのも、まるっきり見捨てられた、ひとりぼっちの存在になりたくなかったためではなかったか」
ファーストは学問一途で生きてきた博学な学者であるが、それでも、孤独から解放されるためであれば、魂を代償としても惜しくはないと考える。それほど、孤独が耐えがたくなることもあり、孤独があぶないものになることもあるという訳である。
少子高齢化の進んでいる現代、統計はひとりで生きる人々の増加を示す。話し相手のいないため何日も口をきかない人、もはや人とうまく話せなくなってしまった人、そこに住んでいることさえ忘れられてしまった人、孤独死を逃れるためなら、悪魔の持ってきてくれる仕事でもいいじゃないかと思わざるを得ない。