日本と中国 手紙のはなし
「手紙」は、中国では
「トイレットペーパー」のこと
江戸時代の中ごろ、伊勢貞丈という人が、こんなことをいっています。
「手紙という名目は、昔はなかった。みずから書いた書状のことを手簡といったのを、てかんと読み、これがなまって手紙といったのだろうか。昔は紙を横に二つ折りにして書いたものを小文といっていたが、その小文を略して半切紙に書いたものを、このごろでは手紙といっている。」と。
どうも手紙という名称は、そのころから一般化したようです。それまでは、小文、または、書簡・書状・消息などといっていました。
これらの名称は中国から伝わってきたもので、手紙のことをさしていう言葉は何十となくあります。ただし、中国では手紙のことを「手紙」とは絶対にいいません。中国でいう「手紙」とはトイレットペーパーのことなのです。
「あなたからお手紙をいただき大変なつかしく……」などと書くと、中国の人は噴き出してしまいます。「あなたからトイレットペーパーをいただき大変なつかしく……」ということになってしまいますから。
「雁書」と伝書鳩
中国で書簡のことを、少し気取っていう言葉に、雁書(がんしょ)または雁札というのがあります。前漢の時代、蘇武という人が使者として敵国の匈奴に行ったとき捕えられてしまい、帰れなくなりました。そこで蘇武はひそかに雁の足に手紙を結んで放ち、漢の天子に囚われの身になったことを伝えたという故事によるものです。いわば伝書鳩のような方法で通信したわけです。もっとも、中国で唐代には伝書鳩が船乗りの間でさかんに行われました。鳩は数千里もの距離を飛び、家族のもとへ航海の無事であることを知らせ、重宝がられました。
漢字が中国から日本へ伝わったと同じに、手紙の書き方も中国から伝わってきました。中国は、礼儀のやかましい国で、なかでも文章上の礼儀はことにやかましく、文章はその人の人格・教養・学識のすべてを表すものと考えていましたから、手紙は大変むずかしいものでした。しぜん、敬称は多くなり、文章は美文で飾られました。そして、多くの礼儀上の約束ごとや複雑な形式を持っていました。
奈良時代から平安時代にかけて、日本の貴族たちは、もっぱらこの中国の書簡の形を手本として手紙を書きましたが、あまりむずかしいので、書いた本人すら、その意味がわからないのではないかと思われるようなチグハグなものもあります。
季節のあいさつ文に
力を入れた昔の手紙
そして、11世紀の半ばになり、中国式ではあまりにも不便なため、当時の文章博士で大学頭であった藤原明衡がはじめて日本式の手紙の教科書、範例集のようなものを編集しました。これが後の世にまで有名になった「雲州消息」という本です。漢文体ではありますが、日本の手紙の書き方の始めといえましょう。
この本は三巻からなり、百三十七通の文例が四季にわたって収められています。一例をあげてみますと「一日、殿の御供にて宇治に参る。緑水湯々として、紅葉紛々たり。水霊献ぐる所の波臣は両穴の味に宛然たり。大谷の梨、朔浜の栗、弱枝の棗、俗流に異なる。………」宇治の平等院に参詣したときの景色や状況をめんめんと美文で綴りあげ、最後に用件を一言、君もこないかと誘っています。
現代は、用件の通信文が主体で、季節のあいさつは形式化されていますが、当時は、用件の方は簡単に形式化し、季節や感想をむずかしい語いをたくさん使って長々と書いています。ですから、手紙といっても、通信よりたぶんに文学趣味にかたよっており、よほどの学問がないと書けないものでした。